【日本ラクロスの四半世紀・第20回】 特集・開拓者からのメッセージ(2) 「黎明期の情熱」
2012/06/28
1997年の協会機関誌『RELAX2』には、当時ラクロスに関わっていた人たちが自分たちの想いを書き綴ったエッセイが掲載されていました。
そのエッセイを振り返る特集の第二弾は、日本ラクロスの黎明期に情熱をたぎらせた選手・スタッフたち3名のエッセイです。
もっとラクロスで強くなるために、もっとラクロスを楽しむために、もっとラクロスにのめり込み、自分の手でもっと素晴らしいラクロスの環境を手に入れる。言葉の端々に、そんな日本ラクロスへの熱い思いが込められている彼ら・彼女らのメッセージを、ぜひご覧ください。
私は、現在「Sports Graphic Number」という雑誌を25万人の読者に向けて、せっせと作っている。昨年後半は、サッカーW杯出場のあおりを受けて50万部を売った号も続いた。
売り上げを伸ばす一方で、私には悩みがある。実際に取材にあたったライターとカメラマン、そして読者と選手、さらに編集者である私を含めた全員が満足するものを作ることは非常に難しいということだ。「雑誌は一冊でも多く売らなくてはいけない」ということを考えれば、この中で一番大切なものは、読者かもしれない。いや、もちろんそうだ。私もいつも読者を喜ばせるものを、ということを念頭に作り、読者からの感想のはがきに涙を流すこともある。しかし、その記事に関わった者の中に、出来上がりに不満を覚える者が出てくることもたまにあるのだ。それが選手だった時、私のショックは大きい。
スポーツ選手の「仕事」を間違いなく伝えるには、一方面からの取材では足りない。サッカーW杯予選中にこんなことがあった。「ナンバー」は加茂監督の頃から一貫して辛口批評で通していた。それは岡田監督になってからも続いた。代表選手の多くが「ナンバー」を読んでくれていることは、私にとって励みであり、誇りでもあった。イラン戦から帰国した日、ある選手と食事をした。彼は「勝ったから言うんだよ」と前置きしてからこう言った。「ナンバーね、あんまりよく思われてないよ。どうして岡田さんじゃ駄目だなんて言ったの?練習風景を見てれば、選手が岡田さんを信頼していることぐらい分かったでしょ。選手と監督がうまくいっていれば、大丈夫なんだから。選手とのコンタクトが禁止されているっていったって、お前たちもプロなんだろ?俺たちだってこれでメシ食ってるっていうプロ意識は強いよ。禁止されてたって、なんとかして選手にちゃんと取材して書かなきゃだめだよ」
私は、頭をガツンと殴られた気がした。確かにサッカー専門誌でない我々が、毎号のようにサッカーの記事を作っていく過程で、取材が甘くなっていたことは事実だった。この助言をくれた彼は、「お前は友達だから言うんだぞ」と落ち込んでいる私に何度も気を使ってくれたが、築地のすし屋で私の気は遠くなるばかりだった。
かつて、ほんの少しだけスポーツマンを経験している私が、そこから一番今の仕事に生かさなければいけないことができていない。そんな自責の念にもかられた。この仕事をしていると、よく「何かスポーツしてたの?」と聞かれる。「ラクロスです」と現役当時ほどではないが、相手が知らない場合は身振り手振りで答える。ここで、私は「体力採用」と認識されてしまうのだろうが、「ナンバー」で生かさなくてはいけないのは、「スポーツマンがどこを見て欲しいと思っているのか」という部分の理解であると思う。大学卒業後7年が経っていて、当時の体力なんてこれっぽっちも残っていない。しかし、今でもあの時のスピリットは思い出せる。私のハートに宿るものを、この鍛えたというより訓練された頭脳から、世間に発信しなければならない。それが私の使命だと思っている。
(『MAXI RELAX;1998年3月』より)
中国へ行ってきました。目的はアジアで2番目の”W杯出場国”になってもらうことで、ひいては”2005年ラクロス・アジア大会”の開催です。
中国では競技スポーツに従事する人が極めて少なく、つまり"オリンピックで勝つための代表選手”になり得る人々だけが特別に養成されるので、北京体育大学への交渉を決めたのも、その大学が最も”中国代表チーム”に結び付けるべく、近い機関だったからです。
ですから、”中国へのラクロスの普及”は決して人口的な普及ではなく、あくまでも、その他のアジア諸国への強い影響力を持つ国家と考え、ある意味で”投資”を決定しました。
自転車が歩道を走ってはいけない国、それでいて接触事故があまり起きない中国はやっぱりすごかったです。黄砂で常にどんよりしていた北京の街は、最高責任者亡き後の”全人代”の最中で特別な時期でした。天安門広場の辺りは完全に通行止めになっていて(なぜか自転車は通れるんですけど)、ある頭の悪い事務局長が、女子W杯ポスターを広げ記念写真を撮ろうとした瞬間、正確には写真を撮った3秒後には公安警察に取り囲まれ、お登りさん達も50人ほど大集合し、ちょっとした騒ぎになってしまいました。
そして大学への交渉へ向かいますと、通された部屋が、たった6人の会議なのに小学校の体育館くらいある”貴賓室”でまずは威圧され、緊張しつついつものように”ラクロスのご説明”を始めました。いよいよ交渉ごとになった瞬間に、先方のトップ、李氏(同大学国際部長)の目が豹変。どうも私の”アジアの国から金メダルを”に反応された様な気がするのですが・・・。それからは具体的な数字、例えばクロスを何本寄贈できるのか、研修生をいつ訪日させられるのか、等々。とにかく午前中で終わるはずの会議も、最近流行の”羊しゃぶ&60%アルコール蒸留酒”の昼食歓待の後、「午後も会わせたい人がいる。とりあえず休憩して下さい」と、てっきり”お茶でも飲むのか”と思いきや、通されたのが来客様宿泊棟で、「1時間後に迎えにきます」となって、「中国では学生もみんな昼食後に1時間寝るんです」と続く(本当かは知らない)。
専門家が言うに、要するに先方は”ものすごくやる気になっている”らしいのでした。でも、そんなことがたった1日できまっていいはずがない・・・。夕方ホテルまで送ってもらい、部屋でシャワーを浴びながら急に恐くなってきたのです。何しろ一人ですから。それで情けないことに、アメリカやオーストラリアの関係者にがんがんFAXして、用具関係の寄贈について協力を要請し、日本の商社やメーカーの知人に電話して”中国人の話の進め方”を聞いたりしました。実に国際電話5万円分を費やし、裏を”約束した後”に取ったわけです。いやあ、ごめんなさい。
結果的に第1段階はクリアし、日中ラクロス交流は始まりました。女子のW杯には5名来日。6月にコーチ派遣。8月に研修生招聘。11月に日本選手団訪中。というのが近々の計画です。
(『RELAX2・第1号;1997年5月』より)
1997年7月1日、香港は英国から中国に返還された。返還前日深夜、新聞社に勤める私は、刷り上がったばかりの紙面に目を通していた。朝刊の写真には、港から打ち上げられる花火に照らされた香港の人々が写し出されていた。私は観客の一人一人の輪郭を眺めながら、1994年の冬、香港に遠征したあの一週間を思い出していた。これほど国境が低いラクロス界であっても、未だにアジアに遠征しようなどという大学はどこにもない。アジアの時代とはいえ、ずいぶん思い切ったことをしたものだ。
当時の香港男子ラクロスは、男子と女子のルールがミックスしたものであった。最大の違いは防具を付けていない点であった。物理的に防具が手に入らないという理由があるのだが、彼らなりにルールに工夫を加え、香港独自のラクロスが完成していた。しかし、全く防具がないわけではなかった。中でもグローブをシェアしていた選手の姿は印象深い。何と、二人で片方ずつグローブをはめているのである。つまり、ある人は右手だけ、またある人は左だけといった具合だった。ヘルメットに関しては3人に1人が所有している程度だった。事前に情報は入ってはいたが、防具を付けない男子ラクロスというスポーツが、ある程度完成していた為、私達は遠征初日から予定を変更することになった。本来は香港大学との交流戦を開催する筈であった遠征が、実際は「正しい男子ラクロスの普及」が中心活動となってしまった。幸運にも部員の多くは、自分達がしようとすることに対し強い意義を感じてくれ、思いがけない親善の場が出来た。
忙しい毎日であったが、一日だけ取った休日には、香港大学の学生が現地の人もあまり行かないという孤島を案内してくれた。今となっても場所が確認できないのだが、その島には車が一台も走っておらず、船着場には何十メートルにも渡って魚屋が立ち並んでいた。僕らは自分達で好きな魚を選び、魚屋からさらに奥に続く料理屋のひとつにその魚を持ち込み料理してもらった。どんな料理法だったかは覚えてないが、今思い出してもあの時ほど美味しい中華料理を未だ食べていない。
遠征最終日。努力の甲斐があってか、全員が防具を付けて試合することが出来た。香港中のラクロッサーが一堂に会し、紅白戦を開催した。人数は50人くらいではあったが、まさに香港ラクロスの創始者とも言える彼らを相手にプレーした経験は、非常に価値あるものであった。同じような顔つきで、同じような文化を持つアジアの仲間達が、これからラクロスを始めようとしている姿に感動した。そして、何より嬉しかったことが、別れ際に彼らの方から「また試合をしよう」と声を掛けてくれたことである。
小さな一歩ではあるが、確実にアジアラクロスの歴史は始まっている。「アジアカップ」の開催が真剣に語られる日も近いと思う。今年、日本ラクロスは北京に遠征した。私の友人も北京の大学でラクロスを普及している。シンガポールにも、韓国にもラクロスはある。ゆっくりではあるが、確実にアジアにラクロスは根付いてきている。もしかしたら、そう遠くない将来、アジアの旅の途中、街角で突然ラクロッサーに出会う日がくるかもしれない。
こんな時代だからこそ、「アジアでラクロス!!」。私はお勧めします。
(『RELAX2・第5号;1998年1月』より)
■ 『第21回 2003年・全日本選手権戦国時代の幕開け』 へ続く
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そのエッセイを振り返る特集の第二弾は、日本ラクロスの黎明期に情熱をたぎらせた選手・スタッフたち3名のエッセイです。
もっとラクロスで強くなるために、もっとラクロスを楽しむために、もっとラクロスにのめり込み、自分の手でもっと素晴らしいラクロスの環境を手に入れる。言葉の端々に、そんな日本ラクロスへの熱い思いが込められている彼ら・彼女らのメッセージを、ぜひご覧ください。
藤森 三奈 「ハートは死なない」 |
1988年・聖心女子大学にて、第1回学生リーグ戦にエキシビション参加 1989年・日本学生ラクロス連盟 初代女子委員長 |
早川 靖彦 「アジアからW杯金メダルを!!」 |
1986年・慶應義塾大学にて、友人とともに日本でラクロスを始める 現・日本ラクロス協会専務理事兼事務局長代行 |
渡邊 賢一 「ラクロスは日本から来た/香港」 |
1989年・学習院大学ラクロス部創設メンバー・初代主将 2000年・第2回日中親善試合 日本選手団男子キャプテン |
ハートは死なない (藤森 三奈) |
売り上げを伸ばす一方で、私には悩みがある。実際に取材にあたったライターとカメラマン、そして読者と選手、さらに編集者である私を含めた全員が満足するものを作ることは非常に難しいということだ。「雑誌は一冊でも多く売らなくてはいけない」ということを考えれば、この中で一番大切なものは、読者かもしれない。いや、もちろんそうだ。私もいつも読者を喜ばせるものを、ということを念頭に作り、読者からの感想のはがきに涙を流すこともある。しかし、その記事に関わった者の中に、出来上がりに不満を覚える者が出てくることもたまにあるのだ。それが選手だった時、私のショックは大きい。
スポーツ選手の「仕事」を間違いなく伝えるには、一方面からの取材では足りない。サッカーW杯予選中にこんなことがあった。「ナンバー」は加茂監督の頃から一貫して辛口批評で通していた。それは岡田監督になってからも続いた。代表選手の多くが「ナンバー」を読んでくれていることは、私にとって励みであり、誇りでもあった。イラン戦から帰国した日、ある選手と食事をした。彼は「勝ったから言うんだよ」と前置きしてからこう言った。「ナンバーね、あんまりよく思われてないよ。どうして岡田さんじゃ駄目だなんて言ったの?練習風景を見てれば、選手が岡田さんを信頼していることぐらい分かったでしょ。選手と監督がうまくいっていれば、大丈夫なんだから。選手とのコンタクトが禁止されているっていったって、お前たちもプロなんだろ?俺たちだってこれでメシ食ってるっていうプロ意識は強いよ。禁止されてたって、なんとかして選手にちゃんと取材して書かなきゃだめだよ」
私は、頭をガツンと殴られた気がした。確かにサッカー専門誌でない我々が、毎号のようにサッカーの記事を作っていく過程で、取材が甘くなっていたことは事実だった。この助言をくれた彼は、「お前は友達だから言うんだぞ」と落ち込んでいる私に何度も気を使ってくれたが、築地のすし屋で私の気は遠くなるばかりだった。
かつて、ほんの少しだけスポーツマンを経験している私が、そこから一番今の仕事に生かさなければいけないことができていない。そんな自責の念にもかられた。この仕事をしていると、よく「何かスポーツしてたの?」と聞かれる。「ラクロスです」と現役当時ほどではないが、相手が知らない場合は身振り手振りで答える。ここで、私は「体力採用」と認識されてしまうのだろうが、「ナンバー」で生かさなくてはいけないのは、「スポーツマンがどこを見て欲しいと思っているのか」という部分の理解であると思う。大学卒業後7年が経っていて、当時の体力なんてこれっぽっちも残っていない。しかし、今でもあの時のスピリットは思い出せる。私のハートに宿るものを、この鍛えたというより訓練された頭脳から、世間に発信しなければならない。それが私の使命だと思っている。
(『MAXI RELAX;1998年3月』より)
最近のプロフィール | ナンバー編集部には2003年3月まで在籍し、その後5年間週刊文春編集部、現在はノンフィクション系単行本を作る部署に在籍。 | |
エッセイを今読んでの感想 | 若い! 熱い! やはり、事件は現場でおきていますね。最近、現場取材から遠のいているので、当時の私に拍手。アクティブでなければ、マスコミじゃない!と、今の自分を戒めました。でなければ、あのような選手からの話は聞けません。 |
アジアからW杯金メダルを!! (早川 靖彦) |
中国では競技スポーツに従事する人が極めて少なく、つまり"オリンピックで勝つための代表選手”になり得る人々だけが特別に養成されるので、北京体育大学への交渉を決めたのも、その大学が最も”中国代表チーム”に結び付けるべく、近い機関だったからです。
ですから、”中国へのラクロスの普及”は決して人口的な普及ではなく、あくまでも、その他のアジア諸国への強い影響力を持つ国家と考え、ある意味で”投資”を決定しました。
自転車が歩道を走ってはいけない国、それでいて接触事故があまり起きない中国はやっぱりすごかったです。黄砂で常にどんよりしていた北京の街は、最高責任者亡き後の”全人代”の最中で特別な時期でした。天安門広場の辺りは完全に通行止めになっていて(なぜか自転車は通れるんですけど)、ある頭の悪い事務局長が、女子W杯ポスターを広げ記念写真を撮ろうとした瞬間、正確には写真を撮った3秒後には公安警察に取り囲まれ、お登りさん達も50人ほど大集合し、ちょっとした騒ぎになってしまいました。
そして大学への交渉へ向かいますと、通された部屋が、たった6人の会議なのに小学校の体育館くらいある”貴賓室”でまずは威圧され、緊張しつついつものように”ラクロスのご説明”を始めました。いよいよ交渉ごとになった瞬間に、先方のトップ、李氏(同大学国際部長)の目が豹変。どうも私の”アジアの国から金メダルを”に反応された様な気がするのですが・・・。それからは具体的な数字、例えばクロスを何本寄贈できるのか、研修生をいつ訪日させられるのか、等々。とにかく午前中で終わるはずの会議も、最近流行の”羊しゃぶ&60%アルコール蒸留酒”の昼食歓待の後、「午後も会わせたい人がいる。とりあえず休憩して下さい」と、てっきり”お茶でも飲むのか”と思いきや、通されたのが来客様宿泊棟で、「1時間後に迎えにきます」となって、「中国では学生もみんな昼食後に1時間寝るんです」と続く(本当かは知らない)。
専門家が言うに、要するに先方は”ものすごくやる気になっている”らしいのでした。でも、そんなことがたった1日できまっていいはずがない・・・。夕方ホテルまで送ってもらい、部屋でシャワーを浴びながら急に恐くなってきたのです。何しろ一人ですから。それで情けないことに、アメリカやオーストラリアの関係者にがんがんFAXして、用具関係の寄贈について協力を要請し、日本の商社やメーカーの知人に電話して”中国人の話の進め方”を聞いたりしました。実に国際電話5万円分を費やし、裏を”約束した後”に取ったわけです。いやあ、ごめんなさい。
結果的に第1段階はクリアし、日中ラクロス交流は始まりました。女子のW杯には5名来日。6月にコーチ派遣。8月に研修生招聘。11月に日本選手団訪中。というのが近々の計画です。
(『RELAX2・第1号;1997年5月』より)
ラクロスは日本から来た(Hong Kong) (渡邊 賢一) |
当時の香港男子ラクロスは、男子と女子のルールがミックスしたものであった。最大の違いは防具を付けていない点であった。物理的に防具が手に入らないという理由があるのだが、彼らなりにルールに工夫を加え、香港独自のラクロスが完成していた。しかし、全く防具がないわけではなかった。中でもグローブをシェアしていた選手の姿は印象深い。何と、二人で片方ずつグローブをはめているのである。つまり、ある人は右手だけ、またある人は左だけといった具合だった。ヘルメットに関しては3人に1人が所有している程度だった。事前に情報は入ってはいたが、防具を付けない男子ラクロスというスポーツが、ある程度完成していた為、私達は遠征初日から予定を変更することになった。本来は香港大学との交流戦を開催する筈であった遠征が、実際は「正しい男子ラクロスの普及」が中心活動となってしまった。幸運にも部員の多くは、自分達がしようとすることに対し強い意義を感じてくれ、思いがけない親善の場が出来た。
忙しい毎日であったが、一日だけ取った休日には、香港大学の学生が現地の人もあまり行かないという孤島を案内してくれた。今となっても場所が確認できないのだが、その島には車が一台も走っておらず、船着場には何十メートルにも渡って魚屋が立ち並んでいた。僕らは自分達で好きな魚を選び、魚屋からさらに奥に続く料理屋のひとつにその魚を持ち込み料理してもらった。どんな料理法だったかは覚えてないが、今思い出してもあの時ほど美味しい中華料理を未だ食べていない。
遠征最終日。努力の甲斐があってか、全員が防具を付けて試合することが出来た。香港中のラクロッサーが一堂に会し、紅白戦を開催した。人数は50人くらいではあったが、まさに香港ラクロスの創始者とも言える彼らを相手にプレーした経験は、非常に価値あるものであった。同じような顔つきで、同じような文化を持つアジアの仲間達が、これからラクロスを始めようとしている姿に感動した。そして、何より嬉しかったことが、別れ際に彼らの方から「また試合をしよう」と声を掛けてくれたことである。
小さな一歩ではあるが、確実にアジアラクロスの歴史は始まっている。「アジアカップ」の開催が真剣に語られる日も近いと思う。今年、日本ラクロスは北京に遠征した。私の友人も北京の大学でラクロスを普及している。シンガポールにも、韓国にもラクロスはある。ゆっくりではあるが、確実にアジアにラクロスは根付いてきている。もしかしたら、そう遠くない将来、アジアの旅の途中、街角で突然ラクロッサーに出会う日がくるかもしれない。
こんな時代だからこそ、「アジアでラクロス!!」。私はお勧めします。
(『RELAX2・第5号;1998年1月』より)
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